私の父は漁師でした。

魚が取れない月は、ほとんどお金が入ってきません。

そんな時、父はイライラするのか、母を拳で殴っていましたね。

母は、一言も言わずじーっと我慢してました。

それでも幼い私にとって父は、威厳のある怖い父親でしたが、囲炉裏のある前であぐらをかいて座っている父の足元に、チョコンと座るのが好きでしたね。

父はニコニコして、灰の中にあるさつまいもを火箸で取り出し、私に皮をむいて「ほいっ」と言って食べさせてくれましたよ。

家は決して裕福ではありませんでしたが、大好きな父と母でした。

(ブログ管理者きっこの回想)

目次

楽天的に生きる

PHP5月増刊号より引用

佐藤愛子プロフィール

1923年、大阪府生まれ。

甲南高等女学校卒業。

’69年「戦いすんで日が暮れて」で直木賞を、’79年には「幸福の絵」で女流文学賞を受賞。

2000年には「血脈」で菊池寛賞を受賞。

近著「九十歳 何がめでたい」(小学館)がベストセラーに。

「精神」の強さが最後に物を言う!

考えてみるとこの頃は「美徳」という言葉を聞きませんね。

何が美徳か、教える人もいない。

とにかく平和平穏、豊かで便利、快適・・・・。

それを幸福だと考える人が多くなりました。

ソンした、トクした、の話ばっかり。

物欲を露骨に見せるのは、人格の低劣な人間だ、というような観念は、雲散霧消しましたね。

十代の女の子が売春する。

それを言うのに、援助交際ということばを考え出す。

売春を援助といえば、もっともらしく聞こえるじゃありませんか。

そんなふうにして否定されるべきいろんな現象が、「フツー」のことになっていく。

本来十代の女性は純で怖がり屋さん

だいたいね、十代の女の子というものは、潔癖で羞恥心、純で怖がりで清らかなものですよ。

その十代がね、どこの何者ともわからぬオッサンに身体をさわられて平気でいるという、その感性の鈍感さに驚いてしまうのです。

どうしてそんなことをするのか、と問うと誰にも迷惑をかけていないのだからいいだろう、という。

お金が入れば親に小遣いをねだることもないから、親も楽でいいでしょう、という。

身体は減るもんじゃないから、という。

いやはや、いやはや、というしかなく、なんでここまで落ちてしまったのかと嗟嘆するばかり。

古今東西、金のために身体を売った女性はたくさんいます。

いるけれども、その人たちは皆、食うためにあるいは病父のため、又は病母のため泣く泣く身を売ったであろう。

しかし、自分の身を恥ずかしいと思い、引け目を感じる気持ちは、ずーっと尾を引いていたと思います。

大切なことは「心」の問題だと私は考えますね。

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欲望というものは際限がない

欲望というものは際限なく膨張するもの。

欲しいものを手に入れると、もっと欲しくなるものです。

わたしらの時代は、各家庭によって、その家の家風というものがありました。

つまりその家の価値観というものが、それぞれあったのです。

「出世して人から仰ぎ見られるような人間になれ」

「貧しくてもいい、平凡に正直に生きよ」というふうに。

私の父の価値観は、「ものを欲しがるな」「見栄をはるな」「勇気をもって生きよ」「逃げるな」「妥協するな」ということでした。

夫の事業の失敗による借金肩代わり

私は後に夫の事業が失敗したとき、借金を肩代わりして何年も返済に苦しむという羽目になりましたが、「借金の肩代わり」など、(法律的にはする義務もないものを)してしまったのは、この父の教えのためだったと思いますよ。

けれども、「勇気をもって生きよ」「逃げるな」というもう一方の教えのおかげで、その困苦を切り抜けることができたのだと思います。

「あなたは楽天的でいいわね」とよく人から言われるけれど、そして自分でもそう思うけれど、楽天的になれたのは物や金への執着や欲望がなかったからではないかしら。

それを私に植え付けてくれたのは、父の教えだったような気がします。

作家を目指す闇の世界

二十歳のとき(戦争の真っ只中)に結婚をし、それが破れて一人で生きなければならなくなったときに、「お前のようなわがままな変わり者は物書きになるしかない、と母が言いました。

職について組織の中に入れば、必ず協調できなくなってまわりに迷惑をかけ、喧嘩して辞めるということになる。

物書きであれば、一人でする仕事だから誰にも迷惑をかけることがない。

書いたものが売れなければ貧乏でいるだけのこと・・・。

私の母も思い切ったことを、平気で言う人でした。

そうして作家を目指したのですが、行く先は闇でしたね。

才能も学識も素養も何もない私ですもの。

やがては、のたれ死ぬかもしれないな、と思いながら売れない小説を書いていました。

それでも私には「目指すもの」があったので、元気でした。

お金はなくても、同じ目標の仲間がいましたしね。

その仲間の一人と結婚したのが、三十歳の時です。

その夫の事業の失敗で、借金肩代わりのための苦闘の年月があったのです。

「おもしろかった」といって死にたい!

そうして七十八年生きてきて、いやあ、もの凄い波乱をいきてきたなァと改めて思いますが、あの波乱があったおかげで、大して素養のない私が、何とか作家といわれるものになれたような気がします。

「いやァ、おもしろかった・・・・」そう言って人生を終わる。

それが幸福というものだと私は思っています。(談)