私は母が、40歳の時生まれました。

3歳頃だったでしょうか。

夜、母の背中に綿の入ったおんぶっこで背負われた私は、一瞬何が起きたかわからず目が覚めました。

一人の男性が手を差しのべてくれ、母を引っ張り上げてくれたことを、かすかに今でも覚えています。

母は、私をおんぶしたまま、1,5m下の泥土が溜った入り江に落ちていたのです。

その入江は、満ち潮の時は、小舟が待機している場所でもあったのですが、運よく引き潮だったため、母と私は助かりました。

そのころから母は、しだいに視野が狭くなっていっており、まわりが見えなかったんだと思います。

私が二十歳のころは、母の目は針の穴から見えるくらいの光だったようです。

60代後半は完全に失明しましたね。

今や目の難病といわれる「網膜色素変性症」は、日本人の失明の原因3位にあげられています。

今回は、この難病に希望の光である「人工網膜」という、大きな朗報が舞い込みました。

【2017年12月22日読売新聞朝刊より引用】

目次

人工網膜で難病患者に光が差し込む!

「人工網膜」開発プロジェクトを率いる大阪大の不二門尚教授(63)。

「実用化されれば、患者にとって大きな福音となるはずだ」と、熱い思いを語っています。

ふじかど・たかし:横浜市出身。眼科医。1978年、東京大学大学院修了(物理工学)大阪大医学部に学士入学し、82年に卒業後は阪大講師などを経て、98年から教授。

一歩踏み出す人工網膜

今や、日本人の失明の原因として3番目に多い網膜色素変性症。

遺伝性の病気で、根本的な治療ではないが、ひとしずくの希望が見えてきたという。

プロジェクトには、眼科用医療機器メーカーの「ニデック」が参画しています。

また、難聴者向けに聴神経を電気信号で刺激する「人工内耳」がすでに実用化されていますが、蓄積のある学内の研究者からノウハウを学んでいるということです。

人工網膜は難病患者に光をさす

人工網膜とは:眼鏡に内蔵した小型カメラ、画像を電気信号に変えるコンピューター、信号を受け取るコイル、視神経に信号を伝える電極チップなどからなるシステム。チップ1枚に計49個の電極がついている。米独のチームが開発したチップは、網膜に取り付けるのに対し、阪大は白目の裏に埋め込む。

この「人口網膜」の仕組みはこのようになっている。

目でものを見たとき、その映像は眼球の奥にある網膜の視細胞で電気信号に変換される。

その信号が、視神経を経て脳に伝わり、脳が映像として認識しています。

網膜色素変性症になると、この視細胞は壊れてしまうが、信号を脳に送る神経の一部は残る。

だから、「信号を人工的に作れば、ある程度は見えるはずだ」と考えた。

人工網膜は、そんな原理を応用してできたものです。

この原理を使って、小型カメラを内蔵した眼鏡を掛け、そのカメラがとらえた映像を、外付けのコンピューターが電気信号に変える。

眼球の奥にある網膜の視細胞で、電気信号に変換される。

眼球の白目の奥に埋め込んだ電極チップ(五ミリ四方)が、信号を視神経に送るという仕組みだ。

このことは、難病患者にとって画期的な進歩であり、我が子の成長を見れなかった若い女性にとって、希望が見えてきたということです。

私の母は、40代から徐々に見えなくなっていきましたが、根本的な治療でないにしても、画期的なこととして今後の発展に期待しています。

人工網膜 難病患者に一歩前進実用化迫る【網膜色素変性症に光】まとめ

私の母は84歳まで生きていました。

母の口から、目のことを聞いたことはなかったですね。

なので、今でも目が見えなかったなんて思えないほど、自然な感じで過ごしていました。

少女のような素直な気持ちを持っていて、とっても大好きな母でした。

いつも童謡を口ずさんでいて、時には声をはりあげて歌っていましたね(笑)。

「ランドセルしょって元気よく♪おうたをうたって通う道(^^♪」なんてね。

網膜色素変性症は女性に多いと聞きますが、男性の方も結構多いんですよね。

これからはIT時代です。

人工網膜を試す臨床研究が、どんどん進歩していってるということですので、生活の質が上がれば、生きていてよかったと思える日が、近いうちに必ず来るでしょう。

とっても楽しみです。